斉藤英春さん(享年66才)が平成18年2月26日4時22分永眠しました。
謹んで、お悔やみ申し上げます。
私の会社は”日高製作所”と言う屋号を使っております。それは、私の父藤田茂利がいまの南六郷に移り住んでからです。
私の父は、北海道襟裳岬の出身で、中学卒業後、襟裳岬では夏の7月から9月ぐらいまで昆布取り業をします。その時期が終わると訳もわからない田舎者が、東京へ集団就職のため来ます。そして大田区大森のかわらぎ製作所という会社に就きました。
会社では、自動車の部品を製造し、半人前のときはベルトがけの旋盤の油さしから始まったそうです。その2年後に斉藤さんは私の父の後輩として同郷からやってきました。
その会社(ドリル研磨機のカワラギと社長が兄弟)は、今はありませんが、ここにいた北海道などの地方から就職組みの人たちが、次々独立してひとり親方になりました。大田区に個人事業者が多いのはそのためです。あちこちに、20〜30人いる会社があってそこから腕を磨き技を身につけた人が、会社を起こしたからです。私の父もひとり親方として独立して工場を持ちました。私が子供のときは、その工場の一部を旋盤1台持ったひとり親方が3人いて貸していました。
ですから、彼らが朝から晩まで、一身不乱に旋盤に向かい命を削って、品物を仕上げる姿をずっと見ていました。中には、川崎競馬、大井競馬、川崎競輪、平和島競艇などなどとマージャンの博打に狂う者や酒におぼれる者などいますが、大抵は楽しみの一つ程度で、まじめにやっています。おぼれた者は仕事をこなす事が出来ないので、仕事がなくなりつぶれます。
斉藤さんも昭和14年生まれで、この世代の旋盤職人は、4爪のチャクを旋盤につけて、どううやっても私には出来ない加工をやってのけます。特に芯ぶれの仕事はピカいちで、よそで出来ないと言われた仕事に眼を光らせ、加工してのけると言う人でした。
そんな世代の人々が、今仕事が減ってどんどん大田区のひとり親方は減少の極みです。
ちなみに、斉藤さんの所は長男の英一郎さんが15年ぐらい前から社長として、(有)斉藤英精密(さいとうはなぶさせいみつ)として継がれています。
私たちの日本は島国で、資源のない国だから、原料を輸入して付加価値の高い物を製造して売るような事を小学生の時に習ったように覚えています。しかし、生産性のまったくないお役所に勤め、努力して収めた税金を食い物にするような仕事が、一番おいしいという現実があります。天下りの人間が、何千万という年収もその会社にそれの3倍以上の利益をもたらすからもらえる訳なのをみんなが知っています。そして、戦後50年も経ってわかっていていつまで経っても直すことが出来ない現実に吐き気がします。
私の父の時代の加工業は、まじめに毎日の仕事をこなしていたら、明日の仕事、次に仕事にありつけました。黙っていても、次から次にやりきれない仕事が、石油ショックの時以外はありました。しかし平成になってからの今は、まじめだけでは、どうにもならなくなりました。
かつて、私がこの業界に入った時に、ある営業マンとこんなやり取りがありました。
”あの人は、ものすごく腕がいいんだ!”と言った営業マンに私は、
”どこが、どんな風に腕がいいのですか?”と尋ねると、
”他では4時間かかるところが、3時間で終わるからだ。”と言うのです。
”それは腕がいいのではなく、手が早いと言うのではないですか?”と尋ねると、
”4時間が3時間だから1時間ぶんの単価の3千円安く出来るから、腕がいいんだ。”と、教えられた事がありました。その当事の職人は時間との競争で、腕を競っていた所も多かったでしょうが、その底辺を守っていた人々は、確実に減っています。
親が旋盤をしているところが、マシニングを買って仕事の幅を広げたり、旋盤屋が減っているからここぞとばかりに、複合NC旋盤などの設備投資をするところはあっても、汎用旋盤で独立した人は、私はここ大田区から聞いたことがありません。
ぼやいていたり、嘆いても仕方ないですから、我が道を自分で切り開かなければなりません。製造業は不滅ですが、その形は流動系で、不変です。手ごわいやつです。こちらが変わらなければ、容赦ありません。技術や知識は、いつまでも通用しないのです。
私の父の時代の加工業の経営のあり方と同じではいけないと考えています。また、変えなければならないとも思っています。斉藤英春さんの死は、そのキッカケの一つで、このブログはその表れの一つです。


